昔の絵はがきに見る 足尾八景
俳句の盛んだった足尾らしく、俳句と写真が印刷された "付かず離れず" の理想的な関係の絵はがきがあります。明治33年に私製絵はがきの使用が可能となり、各地の名所旧跡の絵はがきを旅先から送ることが盛んになった時代のことです。
昔の絵はがきに見る 足尾八景(写真:花の渡良瀬)
俳句の盛んだった足尾らしく、俳句と写真が印刷された "付かず離れず" の理想的な関係の絵はがきがあります。明治33年に私製絵はがきの使用が可能となり、各地の名所旧跡の絵はがきを旅先から送ることが盛んになった時代のことです。
一般に、絵はがき写真の撮影者はほとんどが不明ですが、足尾関連の絵はがきは小野崎一徳の撮影がほとんどで、多くの絵はがきは銅山関連です。その中で「足尾八景」と題した風景写真等のシリーズも残されています。また、「足尾八景」の撮影時期は大正期と思われます。
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① 現在
明治後期に建造された渡良瀬橋は当初鉄製のアーチ橋でした。
その後昭和2年に改修、さらに昭和10年(1935年)に上路コンクリートアーチ橋に改修され、現在は歩行者専用橋として利用されています(写真:2012/04/30)。
② 現在
簀子橋山神社大鳥居
この大鳥居は簀子橋への入口、渋川岸にありました。護岸工事の時、現在地(蓮慶寺)の境内に移されました。
山師達は山神様に日々繁栄と安全を祈願し畏敬の念をもって奉じたのです。
♦ 大鳥居:"安永五年(1776年)丙申天五月吉日 願主 間遠(藤)村藤衛門 寄進 銅山師十四村" と刻まれている。
♦ 山師:鉱脈を捜して鑑定し、鉱山の発掘を行う人。
③ 現在
"天下の見晴らし"
と名づけられた展望の良い頂上から撮影した庚申山です。手前左の山は、銀峯(1681m)という馴染みの薄い山ですが、秋に織り成す岩壁と紅葉の景色は、男性的な足尾の秋色を演出します(写真:2010/10/23)。
♦ 大町桂月 著 (明治42年出版) 『関東の山水』 博文館
「一度見ぬ馬鹿、二度見る馬鹿」 といふ庚申山に對する俗諺あり。庚申の如き霊奇の山を一度も見ざるものは、馬鹿也。されど、危険きはまる山なれば、二度とゆくは馬鹿なりとの意也。われは、その二度見る馬鹿となりけるが、閑と錢とあらば、なほ三度見ることを辭せざる也。
(以下は、つたない解釈です)
「一度見ぬ馬鹿、二度見る馬鹿」という、庚申山にたいすることわざがあります。庚申山のような神秘的で不思議な山を一度も登ったことのない人は不幸です。しかし、この上なく危険な山だから、決して二度登ることは考えられないという意味です。わたし自身は二度登るという無鉄砲なことをしてしまったが、もし時間と金銭の都合がつけば、更に三度登ることにやぶさかでない。
右絵図は「風俗画報増刊第234号」掲載の「大名峠渓流の図」です。
(絵図説明文の抜粋) 切幹(ぎりみき)より澤入線に入り、馬車鐵道にて渓流に從い、上州路に向て進めば風景轉換し、山水の奇別に一機軸を出せるものゝ如し。
前岸大名嶺を望めば、危崖に古松疎立し、桟道懸るところ人馬の往来するを見る。眞に画中の観あり。渓畔馬車の通する線路、亦崖腹に依りて開拓せしもの。
(絵図説明文の補足)
渡良瀬川左岸に立ち写生。手前の馬車鉄道は、左端の「笠松片マンプ」に向かって進んでいます。渡良瀬川対岸の大名峠では、松の木の生える険しい山道を馬子や人々が行き交います。
♦ 大名峠渓流の図:風俗画報増刊第234号「足尾銅山図会」明治34年 東陽堂発行
♦ 片マンプ:岩盤の側壁を⊂の形に削り取って造った半トンネル
⑤ 現在
写真は拝殿前の鳥居で、明治22年4月に建造されました。鳥居の構造は素朴な神明鳥居形式で、材質は鉄で全体に直線的に造られています。柱は地面に対し垂直に立てられています(写真:2008/03/30)。
⑥ 現在
現在の"大屈沢"も、絵はがき が作られた当時と同様に幾筋もの滝が続きます(左写真:2024/10/11)。
右上の写真は "せき"ですが、 "大クツ沢" のなかでは最も大きい "せき" と思われます。
その "せき" から落水している滝の写真を右下に掲載しました。この滝が、絵はがきで紹介された "七 滝" でしょう。
"赤法華梅林公園に建つ句碑"
⑦ 現在
原向駅から国道122号を通洞駅方面に行くと、切幹(ぎりみき)橋があります。写真の左下奥のチョコレート色の小さな橋が「切幹橋」です。
その手前の白い橋は「旧切幹橋」です。この二つの橋は庚申川(小瀧川)に架かる橋です。
手前中央の青色の橋が渡良瀬川に架かる "第二渡良瀬川橋梁" で、鉄道橋です。この橋梁は足尾鉄道によって、大正元年(1912年)に架設されました(写真:2007/10/20)。
⑧ 現在
参道を進み、わたらせ渓谷鉄道の踏切を渡ると二の鳥居があります。拝殿前には年季の入ったユニークな表情の狛犬さんがおられます(写真:2013/03/23)。
江戸時代、庚申山登拝の出発点は遠下の磐裂神杜でした。出発地点を指し示す一丁目丁石が境内にあります。この丁石は江戸時代末期、文久3年(1863年)4月8日に建立されたものです。