足尾銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群(Ⅰ)
経済産業省では歴史文化的価値を有する建造物や機械装置などを近代化産業遺産と命名し、それらを種として各地域の活性化を図ることを目的に、2007年度に33のストーリー575件の近代化産業遺産を認定しました。
足尾銅山関連では「ストーリー12 銅輸出などによる近代化への貢献と公害対策への取組みに見る足尾銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群」として認定されました。
経済産業省では歴史文化的価値を有する建造物や機械装置などを近代化産業遺産と命名し、それらを種として各地域の活性化を図ることを目的に、2007年度に33のストーリー575件の近代化産業遺産を認定しました。
足尾銅山関連では「ストーリー12 銅輸出などによる近代化への貢献と公害対策への取組みに見る足尾銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群」として認定されました。
01.通洞坑 ⇒ 02.通洞選鉱所 ⇒ 03.本山製錬所 ⇒ 04.古河掛水倶楽部 ⇒ 05.宇都野火薬庫跡 ⇒ 06.足尾銅山採鉱坑道(本山坑) ⇒ 07.足尾銅山採鉱坑道(小滝坑跡) ⇒ 08.本山動力所 ⇒ 09.通洞動力所 ⇒ 10.間藤水力発電所跡 ⇒ 11.新梨子油力発電所
通洞坑は明治18年(1885)に開坑され、明治29年(1896)には、通洞坑⇔本山坑⇔小滝坑の各坑道が立坑で結ばれ、足尾銅山の基礎が確立しました。
昭和48年(1973)2月24日、通洞坑(現在:国指定史跡)の閉山式当日は、雪が静かに降り続いたそうです。そして、その日を境に坑口を出入りする坑夫の姿は途絶えました。(左写真:2008/08/12)
しかし、昭和55年(1980)、足尾銅山観光オープン以来多くの人たちが坑口を訪れています。通洞坑入口の右上には、山の神が祭られています(右写真:2008/08/12)。
私の小学生時代(昭和30年代)は、通洞地区と砂畑地区の近道として、通洞坑の左に位置する坑道(トンネル)を時々利用していました。
♦ 開坑(かいこう):地下資源を開発するため坑口を設けて新しく坑道を切り開くこと。
♦ 坑道 (こうどう):鉱山などの地下に設けた道。
♦ 立坑(たてこう):垂直または垂直に近い傾斜で、開さくした坑道。坑内の運搬、排水、通気に使用し、動力線などが通してある。
通洞坑 坑内(写真:2016/12/11)
足尾銅山観光(写真:2016/12/11)
‹ 現地案内板の抜粋 ›
通洞坑(つうどうこう)
明治18年(1885)開坑に着手し、11年の歳月をかけ本山坑と貫通させ、足尾銅山の大動脈となった。昭和48年閉山となり日本最大の銅山は歴史を閉じた。 日光市
∗ 施設内見学可 ∗
選鉱の工程は、坑内から掘り出した粗鉱を砕鉱工程で均一サイズに砕きます(写真:2008/01/04)。
続いて、重液選鉱工程で廃石を除き、磨鉱工程で粗鉱を細かに砕き、浮遊選鉱工程で精鉱を取り出します。
♦ 粗鉱:坑内から採掘した状態の鉱石(品位約1.5%)。
♦足尾歴史館の二階から通洞選鉱所を望む
取り出した浮選精鉱は円筒状の鉄筋コンクリート製の精鉱シックナーで水と精鉱とに分離します(写真:2007/10/20)。
分離した精鉱は、次工程の本山製錬所へ搬送しました。
♦ 精鉱:選鉱で品位を高めた製錬前の鉱石(品位約20%)。
♦ 通洞選鉱所: 銅粗鉱(品位約1.5%)から銅精鉱(品位約20%)を回収。
♦選鉱所の見える風景
通洞選鉱所の東どなり(現在の中央グランドから歴史館にかけて)は、選鉱砕石の堆積場でした(新梨子堆積場)。薄い紅茶色した石ころのズリ山でしたが、私が小学生(昭和34年頃)の時に野球場が造られ、野球等をして楽しんだものです。
右の写真は "足尾まつり" の、打ち上げ花火風景ですが、この場所が上記の野球場(新梨子堆積場跡)です(写真:2010/05/03)。
♦ ズリ山:資源として使えずに廃棄された岩石の山。
♦選鉱所とトロッコわっしー2号
通洞選鉱所(写真:2020/06/09)
通洞選鉱所(写真:2011/11/01)
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
選鉱所は、坑内から採掘された鉱石を選り分けて、製錬所へ送る役割を担っていました。本山、小滝、通洞の主要坑口にはそれぞれ選鉱所がありましたが、大正10年までに通洞選鉱所に集約されました。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
小雪が舞う中、朽ちた製錬所の建物が目に飛び込んできました。背後の山に、うっすらと雪が積もるその光景は、かつて製錬所が盛んに操業していた当時をイメージすると、とても物悲しい気持ちになります(上写真:2008/01/04)。
製錬所を写真撮影すると、守護神のような山が必ず背景に鎮座します。
左の写真は、雪化粧した大平山を背にした製錬所です(左写真:2008/12/29)。
右の写真では、後方に地蔵岳がかすんで見えます(右写真:2006/05/03)。
更に、備前楯山の東に横たわる石垣山には、他に類を見ない存在感がただよいます。
♦製錬所の守護神 石垣山
♦石垣山の見える風景
♦大平山(たいへいざん・おおひらやま):かつて松木村があったころ、この山は "松木山" と呼ばれていました。現在の地形図では
"大平山" と記載されています。
産銅量が日本一になるなどの急激な鉱山の成長に対処するために、各坑口にあった製錬所を明治17年(1884)に、現在の場所に集約しました。
空に向かってスックと建っている煙突は、大正8年(1919)に造られ、高さは46.9mあり、本山(足尾)製錬所のシンボルともいえるものです。反射炉工場から出る製錬排煙は、電気集塵装置で除塵し、この煙突から排出されました(上左写真:2013/03/06)。
この煙突の背後斜面にインクライン跡があります。インクラインの側壁は谷積み、乱積みで施工された石積みで、石一つ一つの表情を生かした造りに仕上がっています(上右写真:2013/03/06)。
♦本山(足尾)製錬所: 銅精鉱(品位約20%)から粗銅(品位約99%)を製出。
♦
インクライン:傾斜面にレールを敷き、貨物を昇降させる装置のことで、本山ではドコビールを採用。
ドコビールはインクラインの一種で、上部に設けた滑車を介して両端の貨物が自重で斜面を上下する昇降装置。
現在残っている施設(写真:2017/03/03)
製錬所の硫酸工場でつくられた硫酸は、三基の硫酸タンク(写真の奥)に貯蔵され、パイプラインを介して足尾駅構内にある硫酸タンクまで送られました。硫酸タンクの手前に位置するコンクリート造りの建屋は計器室で、左下のタンクは酸素ホルダー。
赤く錆びた鉄骨構造物はクレーン柱、その下にある鋳造機で粗銅板が造られて日光精銅所に送られました。右奥の鉄骨構造物は自熔炉フレームです(上写真ロールオーバーで詳細)。
渡良瀬川(松木川)で隔てられた対岸を見るたびに、増える更地が目に入ってきます。
平成元年(1989)に操業を停止した製錬所では今、解体作業が進んでいます。
大煙突など11箇所の機器施設は、保存されるそうですが · ·
·。
左写真左上の三基のタンクは硫酸タンク、その下の鉄骨構造物は自熔炉フレーム、右手前の赤く錆びた鉄骨構造物は転炉です。転炉では、銅成分40~50%の鈹(かわ)から銅成分99%の粗銅を製出していました(上左写真:2011/03/30)。♦本山製錬所・転炉
空き地になった製錬所跡の高台に、ソーラーパネルが設置されました。年内には、太陽光発電所が稼働します(上右写真:2013/10/14)。♦太陽光発電所
操業停止後解体された製錬所跡に今も残る一本の煙突が、暗く垂れこめた雨雲のなかに立っています(写真:2015/06/23)。
(上写真:2018/03/14)写真中央:銅精鉱貯蔵庫。中央奥:三基の硫酸タンク。左奥:ソーラーパネル。左手前:向赤倉トンネル。右奥:大煙突。
(上写真:2016/09/01)本山駅の駅舎が 銅精鉱貯蔵庫(左の建物) の影に隠れ、僅かに見える。
(上写真:2017/03/03)
♦製錬所と中倉山
⇒ 製錬所のある風景へ
‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
製錬所大煙突:製錬所の象徴のようなこの煙突は、大正8年(1919)に建てられたもので、高さ48m、直径が下部5.7m上部3.8mです。
足尾製錬所:昭和31年(1956)に完成した自熔製錬工場でかつては上段に脱硫装置を備えた硫酸工場をあわせもった施設でした。
昭和48年(1973)2月閉山。その後輸入鉱石を製錬してきましたが、足尾線貨物廃止にともない、平成元年事実上の操業を停止しました。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
足尾駅から左に折れ、しばらく進むと渡良瀬橋の手前右側に白い建物の古河掛水倶楽部が見えます。
明治32年(1899)に建設されたこの洋館は、明治末から大正初期に改築され、外観は洋風で内部は和洋折衷の木造建築で、銅山での接待、宿泊施設、会合等に使用されました。
館内には大正13年(1924)製のピアノや、製作年代は明治中期と推定される国産の西洋式玉突台(ビリヤード台)があります(上写真:2007/10/20)。
古河掛水倶楽部(写真:2010/11/07)
♦春浅き掛水
♦旧足尾銅山鉱業事務所付属書庫
右写真の右端にある橋は渡良瀬橋、Uの字に流れる川は渡良瀬川、後方中央の山は有越山、そして清々しい緑に囲まれた建物が、掛水倶楽部です(写真:2007/05/05)。
♦ 渡良瀬:
日光開山の祖といわれている勝道上人がこの地に着いたとき、川には橋がなかった。そこで、川の浅瀬を見つけ、無事に対岸に渡ることができたので、この対岸の地を「渡良瀬」とし、川の名を「渡良瀬川」と命名したと伝えられている。
♦ 勝道上人(しょうどう)735年-817年 : 奈良時代末~平安初期の山岳仏教の僧。生没年については737年-807年とする説もある。
明治40年(1907年)に建てられ、平成22年(2010年)2月に県有形文化財に指定された旧足尾銅山社宅群が、古河掛水倶楽部の西隣にあります。
左の写真は、旧足尾銅山所長宅応接室の外観で、平成23年(2011年)10月から一般公開されました。右の写真は、旧足尾銅山所長宅の庭で、渡良瀬川に面しています。(写真左右:2010/11/07)
♦渡良瀬公園から掛水倶楽部
♦旧足尾銅山所長宅の庭
‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
明治44年(1911)頃建てられた和洋折衷の古河の迎賓館で、鹿鳴館や帝国美術館を設計したジョサイヤコンドル氏の影響を強く受けています。
∗ 施設内見学可 ∗
写真は庚申川に架かる宇都野橋です。この橋の手前北側に、採鉱用火薬類を保管する為の宇都野火薬庫跡(国指定史跡)がありますが、山の陰に隠れているので、道路(公道)からは見ることができません(写真:2007/09/16)。
火薬庫の各棟は、レンガ積み、及び切石積みの堅固な建物です。さらに、火薬庫の各棟は各々土手に囲まれて独立した状態で、火薬の誘爆事故を防ぐ環境下に建っています。
小学時代の写生の時間に、宇都野橋を描いたことがあります。当時の橋は写真のような桁橋でなく、トラス橋だったかと思います。また、小学時代の遠足 "草刈山スキー場"
への登山口は、確かこの付近でした。
♦草刈山スキー場:昭和31年 県下スキー選手権大会・県下高校中学校スキー大会開催
♦ スキークラブ会員の方(大正9年(1920)生まれ)の、回想文 ♦
昭和の始めでした。足尾スキー界の大御所○○さんが、お尻にサンダラボッチをつけ、スキーをしているのを見て、「俺も滑りたいな」と思ったのがやみつきでした。十七~八歳の頃、それまでは舟石や赤法華で滑っていましたが、○○さんの指導で、草刈山にスキー場をスキークラブ会員の手で造ることになりました。草刈山は名のように、原の人々の共有の草刈場でしたから樹木はなく、秋に草を刈れば良かったのですが、それが大変でした。営林署のカラ松を払い下げてもらい、丸太小屋も作り、スキー場の格好は整いました。雪質も良かったので、好評でした。
しかし、切幹からスキー場までが徒歩で一時間。草刈山ではスキーをかついだり、階段登行と言って、カニのように横に登ったりに一時間かけても、滑る時間は、たった二~三分でした。一日かけて、滑れるのは三~四回、私たちが、三十年かけて滑った距離は、現在の若者なら一日間ですべってしまうでしょう。 (後略)「町民がつづる足尾の百年」 『明るい町』編集部 からの抜粋
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
近代の採鉱技術に大きな影響を与えた火薬類の保管庫です。明治45年に建築され、その後増改築が繰り返されて、大正8年に完成しました。火薬類の保管庫やダイナマイト庫、雷管・導火線庫、火薬の梱包作業所で構成されています。
∗ 見学不可能 ∗
かつて本山坑は坑口前に梨の木があったことから梨木坑と呼ばれていたそうですが、明治時代に
"有木坑"に改名されたそうです。
明治16年(1883)に、江戸時代の旧坑(梨木坑)を修復、通行可能にして、本口坑下部に向けて坑道開削を進めました。
そして明治21年(1888)には本口坑側と貫通し、本山の主力坑道は本口坑に替わり本山坑(有木坑)になりました。
左の写真では、赤い屋根の建物と廃屋との陰に隠れて坑口は見えませんが、右の写真では、廃屋が解体されたため僅かに坑口が見えます。(左写真:2008/03/30) (右写真:2010/03/12)
♦ 開削:土木工事をして、新たに道路や運河を通すこと。(開削の削は、鑿の代用字)
上左の写真は本山鉱山神社裏の急斜面の岩壁から写した本山坑の全景です。左奥の建物は貯鉱関係施設の建屋で、その手前には浴場の跡地が見えます(上左写真:2013/07/02)。
上右写真の赤色屋根の建物は坑口の開閉所で、樹木後ろの電柱は坑内に電気を引き込むためのものでした(上右写真:2008/03/30)。
左の写真は浴場です。浴場の陰に隠れて僅かに見える建物は、貯鉱関係施設の建屋です。浴場解体後の右写真では、貯鉱関係施設建屋の全体を見ることができます。
(上左写真:2010/03/12)(上右写真:2011/05/15)
上掲左写真の左下に写る小さな赤色の点は、本山坑口の入口にある赤色屋根の建物です。写真の中央に位置する沢は本口沢で、白い縦筋は本口沢堰堤です。背後に控える稜線は、備前楯山東尾根(石垣山と備後楯山を結ぶ尾根)です。
上右写真は本口沢堰堤のアップ写真、下に掲載の写真は更なるアップ写真。このように堰堤の上流は、薄茶色した大量の石で覆われています。
明治15年に開坑した本口坑。そこで掘り出された廃石が流出し、大量の石が堆積する現在の河川状態になったのでしょう。
♦開坑(かいこう):地下資源を開発するため坑口を設けて新しく坑道を切り開くこと。
上掲3枚の堰堤写真は、本山鉱山神社の裏山に登り写しました。急斜面に加えて岩のある山なので、とても怖い思いをしながらシャッターを切りました(^_^;)(写真:2013/07/02)。
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
足尾銅山の主要な坑道の一つです。明治16年に江戸時代からあった旧坑道を再開発したもので、開さくには当時の最新鋭だった機械が導入されました。
∗ 道路(公道)から一部外観を見ることは可能 ∗
庚申川左岸にて発見された江戸時代の旧坑を、明治18年(1885)に取明けを開始して、翌年開坑された最初の小滝坑跡です(左写真:2007/09/02)。
数年後、当初開坑した坑口の下流にさらに大きな間口を有する坑口を開坑しました。これが小滝坑跡で、約70年間の操業の後、昭和29年(1954)に廃止になりました。
(右写真:2007/09/02)
♦ 取明け(とりあけ):旧坑を修復して改めて掘進すること。
♦ 開坑(かいこう):地下資源を開発するため坑口を設けて新しく坑道を切り開くこと。
小滝坑跡の対岸にある岩壁には削岩機の具合を調べる為や、練習の為にあけられた穴の跡があります。
(右写真:2007/09/02)
この岩壁は象山(ぞうやま)下部の岩盤で燕岩と呼ばれ、坑内で使う火薬を一時保管する場所でした(上左写真:2007/09/02)。
小滝坑口の正面に架かる旧小滝橋は大正15年に架設されました。
構造は鋼製のトラス橋で、部材を曲げる力が生じない形の桁橋で、長さは26m、巾は3mあります。
足尾銅山では鉱山鉄道による鉱石運搬が早くから行われていました。この橋にも電気機関車の走る線路が敷かれ、鉱車を牽引して坑内から坑外へと、鉱石の運搬が行われました。
(上右写真:2011/03/30 下流から写す)♦旧小滝橋
(上左写真:2007/09/02 坑口に続く旧小滝橋)
"坑口の懸け橋閉ざす茂りかな" とおる ♦若葉茂る旧小滝橋
‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
小滝坑口:昭和29(1954)年まで使われていた小滝のメイン坑道です。明治18(1885)年の旧坑道取開けから約70年間銅を産出し、この地域を支えて来ました。
小滝旧坑口:江戸時代に掘られ放置されていましたが、古河市兵衛の経営になり再び掘ったところ、わずか30尺(約9m)で大直利にあたりました。江戸時代1600尺(約500m)も堀り、あきらめていたことを考えると、市兵衛の運の強さを示す出来事といえます。
∗取開け(とりあけ):以前掘っていた所を再び掘ること
∗直利(なおり):銅をたくさん含んだ鉱石が集まっているところ
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
出川左岸に立地する動力所です。動力所ではコンプレッサーを作動させ、削岩機の動力源である圧縮空気を作りました。
それまでは低容量のコンプレッサーを坑内各所に分散して設置していましたが、ここでは大型コンプレッサーで圧縮空気を作り、坑内の各所に配した鉄管を介して圧縮空気の集中供給を行ないました(上左右写真:2008/03/30)。
(ロールオーバー時の写真) 左端に写る建物は改築された動力所の建屋で、右隣の構造物はコンプレッサーの作動音を遮断するための防音壁です(写真:2019/06/05)。
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
動力所では、さく岩機の動力源である圧縮空気がコンプレッサーによって作られていました。また、そのための電気は、間藤発電所(後に細尾発電所)から送られた高圧電力を併設の変電設備で変圧し、供給されていました。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
通洞選鉱所前にあるレンガ造りの建物は、圧縮空気を坑内に供給する為の施設です。当時のコンプレッサーの出力は100馬力程度が一般的だったそうですが、通洞動力所では300馬力もあるコンプレッサーを設置しました。
(上左写真:2008/01/04) (上右写真:2009/01/18)
(写真:2017/03/03)通洞動力所
♦ネコヤナギと通洞動力所 ♦通洞動力所
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
明治45年には、通洞動力所に大型コンプレッサー「インガーソルランドPE-2」が導入されました。このコンプレッサーは、当時の国内の鉱山では最大となる320馬力の出力を誇りました。大正3年には、本山動力所にも同型の大型コンプレッサーが導入されました。本山動力所には現在もコンプレッサーが保管されています。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
渡良瀬川を隔てて本山小学校と面する道路脇に、地面から斜めに突き出た直径1m程の鉄管があります。これは発電所跡の鉄管(内径寸法1.38メートル)の一部で、ジーメンス社からの輸入ものです。曲げた鉄板をリベットで円筒に結合したもので、鉄管上部には鉄管連結用のフランジが付いています。
日光細尾発電所が稼働する明治39年(1906)までの15年間、間藤水力発電所は稼働しました。
鉄管背後の岩肌には落差30メートル程の鉄管を据え付けるために、半円筒状(ハーフパイプ状)に削った痕跡がみられます(右写真:2010/05/03)。
渡良瀬川(松木川)を見下ろすと、川床に原動所の煉瓦造基礎の一部が残っています。背後の青色の橋は本山小学校へ通じる橋です(上左写真:2007/08/19)。
右の写真は足尾歴史館に展示されている間藤水力発電所の模型です。緻密に制作されたその外観からは路上に残された鉄管と、川床に残された原動所跡の位置関係を理解することができます(右写真:2013/10/14)。
♦松木川に残る発電所跡
‹ 現地案内板の抜粋 ›
間藤水力発電所跡:ドイツのジーメンス電気機械製造会社のヘルマン・ケスラー技師の勧めにより、はじめて水力発電にふみきり、明治23年(1890)12月、この地(上間藤)に原動所(水力発電所)を完成した。名残りをとどめる直径1mの鉄管の一部が上の平がけ下にあり、原動所はこの下の渡良瀬川原にあった。
昭和53年3月30日 日光市教育委員会
‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
明治23年(1890)12月完成したドイツ・ジーメンス社の技術を導入した発電所です。当時としては240kWの出力を誇る日本最大の規模でした。この電力は立坑や排水、そして一部は電灯用に利用されました。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
非常用電力供給設備として大正4年(1915)に建設された油力発電所で、ディーゼルエンジンで発電しました。 昭和29年(1954)に廃止になりました。
外壁に残る黒い模様は、戦時下での空襲を避けるためコールタールで迷彩を施したなごりです(左写真:2008/01/04)(右写真:2009/01/18)。
(写真:2013/03/23)
__♦新梨子油力発電所
♦ 通洞の発電所に勤めていた方(大正4年(1915)生まれ)の、回想文 ♦
…(前文略) 特に水枯れの冬期間で、日光の細尾発電所や上の代発電所の出力が落ちたときにフル運転し、不足分の発電をするのです。 (後略)…「町民がつづる足尾の百年・第2部」 『明るい町』編集部 からの抜粋
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
重油を燃料とする発電所で、非常用電力供給設備として大正4年に建設されました。出力1000kWは当時としては最大規模のものでしたが、昭和29年に廃止されました。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗