足尾銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群(Ⅱ)
経済産業省では歴史文化的価値を有する建造物や機械装置などを近代化産業遺産と命名し、それらを種として各地域の活性化を図ることを目的に、2007年度に33のストーリー575件の近代化産業遺産を認定しました。
足尾銅山関連では「ストーリー12 銅輸出などによる近代化への貢献と公害対策への取組みに見る足尾銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群」として認定されました。
経済産業省では歴史文化的価値を有する建造物や機械装置などを近代化産業遺産と命名し、それらを種として各地域の活性化を図ることを目的に、2007年度に33のストーリー575件の近代化産業遺産を認定しました。
足尾銅山関連では「ストーリー12 銅輸出などによる近代化への貢献と公害対策への取組みに見る足尾銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群」として認定されました。
12.通洞変電所 ⇒ 13.間藤浄水場 ⇒ 14.中才浄水場 ⇒ 15.原堆積場 ⇒ 16.有越鉄索塔 ⇒ 17.古河鉱業間藤工場 ⇒ 18.本山鉱山神社 ⇒ 19.松木地域旧三村 ⇒ 20.足尾鉄道 ⇒ 21.古河橋 ⇒ 22.本山小学校講堂
発電所から送られてきた電流の電圧を変えて各部門へ送る施設です。増加した電力の需要を賄うための発電計画の下に、明治39年(1906)細尾第一発電所竣工後に建設され、日光精銅所も同年操業開始となりました。
上左写真手前の橋は渡良瀬川に架かる砂畑橋で平成22年(2010)3月竣功(左写真:2010/03/31)(右写真:2012/10/26)。
(写真:2015/09/22)通洞変電所とトロッコわたらせ渓谷号
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
通洞変電所は、大正中期以降、足尾銅山の使用電力を管理する中枢機能を果たしました。鉱山事務所である足尾鉱業所近くに位置し、鉱業所が取り壊された今も、変電所として使用されています。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
明治30年(1897)5月27日、"鉱毒予防工事の命令書"が東京鉱山監督署長より鉱業主に対して交付されました。
それに従い建造された浄水施設の一つが間藤浄水場です(上左写真:2008/01/04)(上右写真:2013/08/28)。
(施設の概要) 本山坑々水に含まれる銅鉱石などを沈殿除去するための沈殿池と、硫酸銅などを中和除去するための濾過池を本山小学校の南側に建造しました。
1987年(昭和62年)からは中才浄水場での一元化操業のため水質浄化の仕事は終了しました。
(上写真:2008/01/04) 手前のプールが間藤浄水場/第1号沈殿池跡です。奥の建物は旧本山小学校講堂です。♦間藤浄水場と本山小学校
‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
本山小学校南側にある池は、明治30(1897)年鉱毒予防工事命令によってつくられた施設で、坑内から出る排水を中和・沈殿させ、無害にして川に流す施設です。
∗ 見学不可能 ∗
明治30年(1897)5月27日、"鉱毒予防工事の命令書"が東京鉱山監督署長より鉱業主に対して交付されました。それに従い建造された浄水施設の一つが中才浄水場です。
渡良瀬川右岸の中才に建造され、通洞坑の坑内水を浄水処理し河川に放水しました。その処理方法は、沈殿池に注入した坑内水を石灰で中和沈殿させ、オーバーフローした上澄み液を濾過池で濾過して河川に放水しました。
銅山閉山後も鉱害防止のために水質浄化の仕事が続けられています(写真:2008/01/04)。
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
明治30年に政府から発令された鉱毒予防工事命令により坑内廃水はすべて中和、沈殿して放水することが義務づけられ、本山、通洞などの主要坑口にそれぞれ浄水場が設置されました。本山坑(製錬所廃水を含む)からの廃水は間藤浄水場で処理され、通洞坑の廃水は中才浄水場で処理されました。中才浄水場は、当時の施設を改良し今も浄水処理が行われています。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
"原橋バス停"の背後にあるコンクリート壁(擁壁)の内側が、原堆積場です(右写真:2008/01/04)。
道路(公道)から離れている為見学はできません(左写真:2010/03/12)。
明治30年(1897)5月27日、"鉱毒予防工事の命令書"が東京鉱山監督署長より鉱業主に対して交付されました。それに従い建造された堆積施設の一つが原堆積場です。堆積場は坑内から掘り出された廃石や、砕いた廃泥を堆積しておく場所です。原堆積場の面積は約28haあり、選鉱スライムを堆積しておく場所でした。脱水乾燥したスライムを切幹から原まで運搬するために、貨物索道が使用されました。
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
堆積場は、明治30年の鉱毒予防工事命令により設置されました。堅固な石垣が設けられ、廃石などを集積しています。原堆積場は、大正6年に設置され、昭和35年までの43年間使用されました。
∗ 見学不可能 ∗
選鉱場から出る廃泥を堆積場へ運搬する索道です。索道のことを足尾では、"鉄索"と呼んでいました。現在、索道の鉄筋コンクリート塔の基礎部分が2箇所残っていて、下にある塔の高さは18m、上にある塔の高さは25mです。
塔の左後方の岩壁にある穴は、不規則に掘られた鉱床が崩落した跡です(上左写真:2009/01/18)。
上右写真は上に位置する塔。上中写真は下に位置する塔(上中•上右写真:2014/02/06)
小学3・4年生のころ写生の時間に鉄索を描いた事がありました。子供心にも うまく描けた記憶があります。(^ん^?。
昭和35年(1960)簀子橋(すのこばし)堆積場が完成し堆積操業開始に伴い、選鉱索道は廃止になりました。
小学生のころ、塔のあるこの裏山はたいへん身近な存在で、塔のところまで歩いて行っては遊んだものでした(写真:2010/04/18)。
♦鉄索塔内側から冬の空を見上げる
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
索道(鉄索)は、物資や廃石、廃泥の運搬に用いられた輸送用のロープウエーです。有越鉄索塔は、通洞選鉱所から廃泥を堆積場へ運搬するための索道の支柱として、昭和14年に建てられました。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
間藤駅前に連なる工場の前身が、間藤工場です。工作課、分析課が設置されていました(右写真:2007/08/19)。
(工作課):輸入した鉱山機械の保守と修理のため、明治24年(1891)に工作課が設立されました。大正3年(1914)には、足尾式三番型削岩機を考案し、大正6年(1917)に削岩機工場が発足しました。
(分析課):主として鉱石の成分分析、その他{排煙、排水、カラミ(鍰)}等の化学分析を行っていた所です。
♦ 削岩機:岩石やコンクリートを破砕するために穴をあける機械。(削岩機の削は、鑿の代用字)
旧古河鉱業間藤工場(分析課):排煙から煙灰を除去し、その成分から亜ヒ素などを製品化する事業も行った(写真:2010/03/12)。
‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
工作課:明治34(1901)年には土木・機械・電気の三部門を担当した花形職場で、足尾式三番型削岩機といわれる日本人の体格に合わせた手持式小型の国産第一号機をつくりました。
研究課:足尾銅山から掘り出される鉱石の分析などを主に行っていました。その他化学分析などもなされ、排煙から微粒金属を除去する電気集じん器の試験が大正5(1916)年日本で最初に行われました。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
足尾銅山の繁栄を願い、本口坑が一望できる対岸の山腹に本山鉱山神社を建設し、明治22年4月28日社殿が竣功しました。
通洞鉱山神社の狛犬はユニークな表情ですが、ここ本山鉱山神社の狛犬は、きめ細かく緻密な仕上がりで、かつその力強さには圧倒されます。
(左写真 本山鉱山神社の狛犬:2008/03/30)
(右写真 通洞鉱山神社の狛犬:2007/10/20)
♦本山鉱山神社の狛犬 ♦通洞鉱山神社の狛犬
(写真:2008/03/30)本山鉱山神社
鳥居は明治22年4月建造、材質は鉄、構造は素朴な
"神明鳥居形式" です。全体に直線的で、柱は地面に対し垂直に立っています。
(左写真:2008/03/30)
(右写真:2013/07/02)
マウスロールオーバ時に変化する右側の写真は、鳥居の柱に磁石が吸いつけられた状態を撮影したもので、鳥居の材質が鉄であることが分かります(上右ロールオーバ写真:2013/07/02)。
本殿母屋の柱は、丸柱造り。向拝左右の向拝柱は面取角柱で、その柱には獅子が外側から内側に向いている彫刻が施されています(彫刻制作:磯部儀兵衛/栃木県栃木市大平町富田出身)。
この彫刻を眺めていると、この社殿を造営し、本山坑で働いた先人達の心意気が感じられます。これら先人の努力により造営された本山鉱山神社の構造物が末永く残ることを祈念します(合掌) (写真:2008/03/30)。
♦本山鉱山神社の懸魚
⇒
舟石林道の山腹にある本山鉱山神社へ
‹ 現地案内板からの抜粋 ›
本山鉱山神社
本山の山腹にあり、明治22年に本山坑に働く鉱員達の寄進により造営されたもので、足尾銅山の山神社としては、最古のものである。 鉱山神社はふつう山神社といわれ大山祗命、金山彦命、金山姫命の三神を祀ってある。本殿は流れ造りである。
∗ 登山にて見学可能(徒歩道なし) ∗
「わたらせ川源流の碑」からの写真撮影です。向かって左側が仁田元村跡、中央が松木村跡、右側が久蔵村跡です。この場所が、仁田元川·松木川·久蔵川の三川合流地点になります(写真:2011/01/21)。
(写真:2009/10/12)松木村跡/松木沢ヘリポート跡
(写真:2011/02/04)旧松木村の墓標 後方の岩山は松木ジャンダルム
中倉山から北東の方角を見下ろすと、南米ペルーにある
"ナスカの地上絵" を思わせる光景が、眼下にひろがっています。ここが旧松木村(松木沢ヘリポート)で、銅親水公園駐車場からの道のりは約3kmです。
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明治10年(1877) 足尾銅山経営開始。
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明治16年(1883) 大鉱脈発見。
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明治20年(1887) 北部の山林、施設、住宅焼失。その後煙害により裸地となる。
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明治26年(1893) 転炉法採用による産銅量の増加に伴い煙害増加。
◊ 明治30年(1897) " 鉱毒予防工事の命令書
"の交付に従い、鉱害防除施設を建造するも、亜硫酸ガスの完全回収は、自熔製錬法が導入される昭和31年(1956)まで持ち越しとなる。
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明治35年(1902) 松木村廃村。
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
松木地域には中世以来3つの山村がありましたが、明治17年建設の直利橋製錬分工場から排出された亜硫酸ガスの悪影響や山林の乱伐、大火により住居は減少していきました。その後、鉱毒予防工事命令により設置された脱硫塔が煙害を著しくし、住民は移転を余儀なくされました。明治35年には地権者との示談が終結し廃村となりました。現在、多くの方により植樹が行われています。
∗ 徒歩にて見学可能 ∗
日光精銅所までの粗銅の搬送は細尾峠ルートでしたが、足尾鉄道開通に伴なって足尾本山駅⇒足尾線⇒両毛線⇒東北本線⇒日光線⇒日光電気軌道⇒精銅所ルートで搬送することになりました。
写真左の建物は、貨物輸送された銅精鉱を収納する貯蔵庫でした。貯蔵庫の奥に本山駅がありました(写真:2010/03/12)。
♦ 銅精鉱: 選鉱で品位を高めた製錬前の鉱石(品位約20%)。
♦ 粗 銅: 製錬で品位を高めた精錬前の粗金属(品位約99%)。
♦ 電気銅: 精錬で品位を高めた最終製品の一つとなる金属(品位約99.99%)。
○足尾鉄道略年表
(1)大正元年(1912/12/31)桐生駅↔足尾駅開通(原向駅、通洞駅も同日開設)
(2)大正03年(1914/08/25)足尾駅↔本山駅貨物線開通(本山駅は貨物専用駅)
(3)大正03年(1914/11/01)間藤駅開設(客扱いの終着駅)
(4)大正07年(1918/06/01)足尾鐵道株式会社解散(国有化:足尾線)
銅精鉱を製錬する際に発生する亜硫酸ガスから回収した濃硫酸は、足尾駅構内で鉄道用硫酸タンク専用車(タキ29312号)に充填して出荷しました。
この硫酸は肥料用や一般工業用として広く用いられました(写真:2010/05/03)。
⇒ わ鐵の文化財へ
(上写真:2016/09/01)硫酸タンク直下に本山駅プラットホームがあります。プラットホームには本山駅倉庫(写真の中央奥)があります。その左隣に本山駅駅舎があります(写真左に建つ大きな貯蔵庫に隠れ、半分しか見えません)。
♦本山駅は貨物専用駅でした。
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
産銅量の増加に伴う輸送力の増強のため、古河鉱業を中心に敷設されました。大正元年には桐生~足尾間が、大正3年には足尾~足尾本山間が開通し、大正7年には国鉄足尾線となりました。
∗ 駅舎見学可 ∗
・・・(前文略)私はこんなことを考えながら古河橋のほとりへ来た。そうして皆といっしょに笑いながら足尾の町を歩いた。(後略)・・・(芥川龍之介著
『日光小品』からの引用)
修学旅行(明治42年)で足尾銅山を見学した龍之介が、銅山発展の礎となった珍しい弓弦形構造の橋を見て何を感じたかと興味を引くのは、私だけでしょうか(写真:2010/02/21)。
古河橋は上弦が弓(ボウ)のような形状のボウストリング(弓弦形)構造の下路式トラス橋です。このタイプの橋は現在ではほとんど採用されませんが、この橋梁部材の手造り的な鉄の肌や、存在感溢れる鉄のシルエットは、当時の土木技術に関する貴重な産業遺産なのです。
日本国内では初期の道路用鉄橋の一つに挙げられますが、老朽化が著しく現在は通行禁止となっています。
♦ 古河橋:渡良瀬川に架かる永久橋としては、明治23年(1890)12月に架けられたこの古河橋が最も古い。
♦古河橋と新古河橋
⇒
古河橋とハリエンジュのある風景へ
古河橋(写真:2007/08/19)
‹ 現地案内板からの抜粋 ›
古河橋(ふるかわばし)は、明治中期までに架設された道路用鉄橋として、原位置に現存する極めて貴重な橋で、足尾銅山の誇れる産業遺産である。 「古河橋」はドイツ・ハーコート社製で、同23年6月架設工事に着手した。12月28日に竣功させるという突貫工事であった。翌年には橋上に日本初の実用化した電気鉄道(単線)を敷設した。平成5年に「新古河橋」が下流側に架設されたので古河橋は歩道橋として残された。
日光市指定文化財(昭和56年12月1日指定)日光市教育委員会
‹ 日光市役所足尾総合支所観光課発行パンフレット「足尾まち歩き」からの抜粋›
明治20(1887)年の大火を教訓に、燃えない橋として道路用鉄橋が明治23年に架けられました。
トラス構造48.5mの橋は、ドイツから輸入したもので、日本に残されている道路用鉄橋としては、古いものに数えられます。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
私立古河足尾銅山尋常高等小学校(本山小)は、明治25年(1892)に本山福長屋(現:南橋)に創立、明治40年(1907)に現在地の向間藤に新築移転し、戦後公立となりました。
古河鉱業の建設物で学校関係では唯一この本山小学校講堂が現存しています(上右写真:2010/02/21)。
左の写真は本山小学校校庭にある運鈍根の碑です(上左写真:2008/12/29)。
♦ 運鈍根:古河市兵衛の座右銘のひとつ
(写真:2008/10/25)
上掲写真は講堂の背後から写した木造平屋建ての本山小学校講堂です。
妻壁の表面にむき出しに配置された木骨の装飾的デザインが、この建物の外観を特徴づけています。
♦本山小学校講堂
(本山小学校校歌・歌詞2番)
運鈍根の信条が いまも生きてる学び舎に ぼくもわたしも元気な子
心をみがき身をきたえ 伸びゆく本山小学校
‹ 日光市教育委員会事務局生涯学習課世界遺産登録推進室発行パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産群」からの抜粋›
講堂は昭和15年の建設ですが、当時、小学校に講堂が建設されるのは珍しいことでした。平成17年4月、本山小は足尾小に統合され歴史に幕を下ろしました。
∗ 道路(公道)から外観を見ることは可能 ∗
‹ 平成19年11月30日 経済産業省発表資料からの抜粋 ›
地域活性化のための「近代化産業遺産群33」の公表について
本件の概要
平成19年4月、経済産業省では産業遺産活用委員会を設置し、我が国産業の近代化に大きく貢献した「近代化産業遺産」について地域史、産業史を軸としたストーリーを取りまとめるべく検討を重ねてまいりました。
全国の行政、企業関係者のご助力の下、今般、「近代化産業遺産群33」として取りまとめ、構成する近代化産業遺産を地域活性化に役立つものとして認定を行うこととなりましたので公表いたします。
この近代化産業遺産が、地域の皆様に活用される事を期待いたします。
公表日 平成19年11月30日(金)
発表資料名
地域活性化のための「近代化産業遺産群33」の公表について(PDF形式:26KB)
http://www.meti.go.jp/press/20071130005/sangyo-isan-p.r.pdf
近代化産業遺産群33(PDF形式:3,443KB)
http://www.meti.go.jp/press/20071130005/isangun.pdf
近代化産業遺産認定リスト(PDF形式:94KB)
http://www.meti.go.jp/press/20071130005/list.pdf
12.銅輸出などによる近代化への貢献と公害対策への取組みに見る足尾銅山の歩みを物語る近代化産業遺産群
◆構成遺産リスト
地域 栃木県日光市
遺産名称 足尾銅山関連遺産
内訳
1通洞坑 - 2通洞選鉱所 - 3本山製錬所 - 4古河掛水倶楽部 - 5宇都野火薬庫跡 - 6足尾銅山採鉱坑道(本山坑) - 7足尾銅山採鉱坑道(小滝坑跡) - 8本山動力所 - 9通洞動力所 - 10間藤水力発電所跡 - 11新梨子油力発電所 - 12通洞変電所 - 13間藤浄水場 - 14中才浄水場 - 15原堆積場 - 16有越鉄索塔 - 17古河鉱業間藤工場 - 18本山鉱山神社 - 19松木地域旧三村 - 20足尾鉄道 - 21古河橋 - 22本山小学校講堂
※資産名は足尾銅山最盛期の名称に基づく