私の 足尾八景
明治33年に私製絵はがきの使用が可能となり、各地の名所旧跡の絵はがきを旅先から送ることが盛んになった時代、「足尾八景」と題した風景写真の絵はがきが発行されました。
しかし当時の景勝地は現在立ち入り禁止、または険しい山上に存在、はたまた消滅した峠道の先に存在していた等々。
このページに掲載の場所は、車で巡ることができ、老若男女どなたでも無理なく訪れることができます。それが「私の足尾八景」の選出基準です。
④ 龍蔵寺
明治33年に私製絵はがきの使用が可能となり、各地の名所旧跡の絵はがきを旅先から送ることが盛んになった時代、「足尾八景」と題した風景写真の絵はがきが発行されました。
しかし当時の景勝地は現在立ち入り禁止、または険しい山上に存在、はたまた消滅した峠道の先に存在していた等々。
このページに掲載の場所は、車で巡ることができ、老若男女どなたでも無理なく訪れることができます。それが「私の足尾八景」の選出基準です。
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明治20年全焼。その後明治28年に、現在の本堂が再建されました。
龍蔵寺対岸の製錬所から生じた煙害のために、上流の住民はやむをえず村を立ち退きました。村跡に残された無縁仏·無縁石塔·無縁墓は、ここ龍蔵寺境内に合祀されています。
龍蔵寺の裏山もハゲ山でしたが、治山事業·砂防事業が行なわれた結果、樹木はよみがえり、龍蔵寺背後の梵天岩も守護神として、足尾の町を見守っています。
昭和31年、旧松木村の無縁仏をこの龍蔵寺境内に合祀しました。
龍蔵寺境内の墓地に「鳳夢城」「香樹林」と刻まれた墓がある。二人は兄弟子の関係で、大忍坊は桜正坊を師とも仰いだ仲です(写真:2022/05/02)。
♦ 大忍坊全祐:足尾赤倉龍蔵寺五十二世住職。「庚午大獄」事件により、小伝馬町の獄で斬首、その首は小塚原でさらされた。明治三年十二月二十六日、ときに三十三歳だった。その死を悲しんだ同志達は上京し、小塚原刑場からその首を夜間ひそかに持ち帰り、龍蔵寺の墓地に埋葬した。墓石には「鳳夢城」と刻まれているが、大忍坊の雅号である。
♦ 桜正坊隆邦:大忍坊の兄弟子。上野国片品村にて戦死。墓石には「香樹林」と刻まれているが、桜正坊の雅号である。
明治20年(1887年)全焼。その後明治28年(1895年)に、現在の本堂が再建された。
友子組合飯場制度のなか、明治大正時代に建てられた "渡坑夫共同供養塔" など多くの墓が残されています。
幾十幾百を数える坑夫の墓が眠る龍蔵寺は、製錬所の対岸に建っています。そして寺を訪れる人達にとっては、鉱山史跡に出あうこともできるのです。写真は無縁塔の傍らに建つ句碑、奥の構造物は製錬所跡に残る大煙突とインクライン跡です。
製錬所跡に残る、近代化産業遺産群(左から 酸素ホルダー、硫酸タンク、計器室、クレーン柱、鋳造機、自熔炉フレーム)。