私の 足尾八景
明治33年に私製絵はがきの使用が可能となり、各地の名所旧跡の絵はがきを旅先から送ることが盛んになった時代、「足尾八景」と題した風景写真の絵はがきが発行されました。
しかし当時の景勝地は現在立ち入り禁止、または険しい山上に存在、はたまた消滅した峠道の先に存在していた等々。
このページに掲載の場所は、車で巡ることができ、老若男女どなたでも無理なく訪れることができます。それが「私の足尾八景」の選出基準です。
③ 愛宕下地蔵尊
明治33年に私製絵はがきの使用が可能となり、各地の名所旧跡の絵はがきを旅先から送ることが盛んになった時代、「足尾八景」と題した風景写真の絵はがきが発行されました。
しかし当時の景勝地は現在立ち入り禁止、または険しい山上に存在、はたまた消滅した峠道の先に存在していた等々。
このページに掲載の場所は、車で巡ることができ、老若男女どなたでも無理なく訪れることができます。それが「私の足尾八景」の選出基準です。
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足尾から阿世潟峠を経て中禅寺湖南岸に通じる街道は、久蔵沢から長手沢をさかのぼる沢沿いの道で、中禅寺路といわれていました。延暦九年(790年)、足尾郷が日光中禅寺領になった当時から、峠道として利用されてきたのでしょう。
その阿世潟峠に至る道中にある石仏が、赤倉村の女性たちが享和元年(1801年)に建立した子育て観音です。中央の石仏の台座に「右ハちゅうぜん寺(中禅寺)」とあります。
赤倉村の女性たちが享和元年に建立した子育て観音です。
♦ 享和時代の出来事:十返舎一九の代表作「東海道中膝栗毛」が享和2年(1802年)に出版された。
愛宕下地区の愛宕下地蔵尊の台座には「右ハちうぜんぢ」「享和元年(1801)」の文字が刻まれています。"中禅寺路" のみちしるべだったのでしょう。
♦ 中禅寺路:足尾から阿世潟峠を経て中禅寺湖南岸に通じる街道。
明治40年代からこの地に銅山社宅が建てられました。戦後「愛宕山」の麓に位置するところから愛宕下(あたごした)と呼ばれました。足尾銅山閉山時(昭和48年)には110世帯377人の人々が生活していましたが、現在は住居跡の石垣が残っているだけです。
愛宕下は鉱業集落で、社宅群があったところです。社宅の構造上、一旦火災になると大火になる恐れがあるので、鍰煉瓦(からみレンガ)造りの防火壁を設置し、延焼を防ぎました。今も黒いレンガ造りの防火壁が残っています。
この "鍰 煉瓦(からみレンガ)" 造りの防火壁は、製錬過程で出る廃棄物を利用したものですが、鉄分が多く含まれ、耐久性に優れたものです。
♦ 鍰(からみ):製錬により鈹(かわ)と、かすに分離する。このかすを 鍰 あるいはスラグという。