備前楯山
備前楯山(1273m)は足尾町の中央に位置する山で、足尾銅山採鉱の主要地域でした。足尾小学校の校歌のなかにも歌われています。
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備前楯山(1273m)は足尾町の中央に位置する山で、足尾銅山採鉱の主要地域でした。足尾小学校の校歌のなかにも歌われています。
慶長15年(1610年)、備前国出身で当時の足尾郷の農民であった治部(じふ)と内蔵(くら)がこの山で露頭している銅鉱石を発見し、日光座禅院座主に報告しました。
座主は二人の功績を記念して、この山を農民の生れた国の名前をとって『備前楯(びぜんたて)』と名付けました。
Ⓐ 備前楯山
Ⓑ 舟石峠からのコース
Ⓒ 有越山・奥水山縦走コース
Ⓓ 新梨子地域を見守り続ける石の祠
Ⓔ 備前楯山の思い出
足尾の山といえば備前楯山でしょう。足尾小学校の校歌のなかにも歌われています。
写真、右奥に位置するピークが、備前楯山(1272.4m)です。左に延びる稜線の鞍部(コル)は、太田峠(1030m)で、その左に横たわる山は石垣山(1106m)です(写真:2013/03/06)。
♦太田峠遠景
左写真では、遠景中央二つのピークを持つ山が備前楯山で、そのピークから左に延びる尾根端に石垣山があります。
石垣山は、本山小学校の裏に位置する山で、児童たちの守り神としての存在感がありました(左写真:2009/10/12)。
右写真は、舟石峠駐車場からの備前楯山です(右写真:2008/03/30)。
♦本山小学校と石垣山
舟石峠からの登山は、他のコースと比べると標識は有るし、最も安全で最短な登山コースです。舟石峠駐車場から、1時間足らずで頂上に着きます。
写真は、舟石峠駐車場から見上げた備前楯山です。(写真:2011/05/15)
その他のコースでは標識は無く、痩せ尾根は有り、道に迷うと危険な場所もあるので充分注意してください。
♦備前楯山とトウゴクミツバツツジ
♦山頂から見下ろす舟石峠駐車場
⇒
備前楯山のアカヤシオ へ
⇒ 備前楯山頂からの眺望へ
⇒
備前楯山周辺の概念図へ
(舟石峠登山口の現地案内板の一部引用)
備前楯山(1273m)は、足尾町の中央に位置する山で、かつての足尾銅山採鉱の主要地域として有名です。
慶長15年(1610年)、備前国出身で当時の足尾郷の農民であった治部(じふ)と内蔵(くら)がこの山で露頭している銅鉱石を発見し、日光座禅院座主に報告しました。
座主は二人の功績を記念して、この山を農民の生れた国の名前をとって『備前楯(びぜんたて)』と名付けました。
楯:銅鉱脈の露頭のことです。環境庁 栃木県
有越山から備前楯山までの稜線を歩くコースです。
縦走ルートは、
(南有越山1025m) ⇔ (北有越山≒1030m) ⇔ (奥水山1114.5m) ⇔ (大水山≒1120m) ⇔ (小水山1095m) ⇔ (三吉転峠1045m) ⇔ (黒岩(唐岩)≒1230m) ⇔ (備後楯山≒1240m) ⇔ (備前楯山1272.4m)までの登山コースです。
♦上記山名の確認に当たり参照した主要な地図を、次に記します。
◎足尾銅山略図 (明治41年10月発行)
◎足尾銅山図 (大正2年2月発行)
◎足尾町地図 (発行不詳)
◎明治10年頃の足尾歴史地図 ( 『足尾銅山史』 村上安正 随想舎 )
右の写真では、これから歩く尾根筋を眺望することが出来ます。
左から奥水山、大水山、小水山、そして中央の鞍部が三吉転峠で、峠を過ぎて登りきったピークが黒岩(写真右端のピーク)、その直ぐ左後の山が今回山行での最高峰であり目的でもある備前楯山です。右下の樹木の無い所は、天狗沢堆積場跡です。
(写真:南有越山頂からの眺望:2013/12/13)
下山の時は絶対に稜線から分岐している支尾根のほうには下りないでください。絶壁と崩れた岩山で下りられません。私は下りで尾根筋を一つ間違えて、簀子橋(すのこばし)堆積場の尾根筋に出てしまい、痛い目にあいました。
(写真:南有越山山頂からの眺望:2007/11/17)
通洞駅と足尾歴史館の中間辺りから登り始めます。足尾歴史館駐車場奥に立つ赤い鳥居のある稲荷裏の石垣をよじ登ると、山歩きがスタートします(写真:2019/12/01)。
足尾歴史館の裏から登り始めても大丈夫です。
初めから急登が続く斜面です。左右にある小さな尾根の間をジグザグに直登します。左手の尾根はヒノキ林ですが、今登っているこの谷筋は松の木が多いので、松ぼっくりを踏みながら歩きます(写真:町並みを見下ろす:2013/12/13)。
登るにつれて両側の小さな尾根が近づいて、一つの尾根になるあたりから、"簀子橋堆積場"が、右手遠方に見えてきました(左写真:2013/12/13)。
何らかの目印として置かれた標石が有り、今回の登山ルートのなかに数箇所ありました(右写真:2013/12/13)。
標石を過ぎると間もなく最初のピーク南有越山です。
登り始めてから最初のピークが南有越山(1025m)です。その山頂からは、北から東にかけて奥行きのある景色が、広がって見えます。
左写真の遠景は、赤倉山です。その左前の山は石垣山で、鞍部を挟んで右のピークは背戸山(997.9m)です。近景には、目を見張らせる
がけ(864m)と、簀子橋堆積場の光景が広がっています(左写真:2007/11/17)。
北の方角には、これから目指す備前楯山が見えます。右写真の中央奥に二つあるピークのうち、左のピークが備前楯山で右のピークが黒岩です。その稜線を左に下った鞍部が三吉転峠で、その左の山が小水山。中央の樹木のない所は、天狗沢堆積場跡(右写真:2013/12/13)。
掲載写真も南有越山頂からの撮影ですが、澄みきった空なので、赤倉山の後方にそびえる男体山も社山も、望むことができました。
写真の右端から簀子橋堆積場、がけ(864m)、天狗沢堆積場跡。
写真左奥から備前楯山、黒岩。
写真最奥右から男体山、社山。
そして、男体山の右前は赤倉山です。
簀子橋堆積場に面する山は、赤倉山の左前に位置する石垣山、鞍部を挟んでその右側が背戸山(997.9m)(写真:2013/12/13)。
南有越山を過ぎ、北西に続く稜線を下り進むと、直ぐに鉄筋コンクリート製の鉄索跡がありました(写真:2013/12/13)。
さらに幅の狭い尾根を進むと、北有越山直下にも鉄索跡が残っていました(写真をマウスでロールオーバした時に変化する写真:2013/12/13)。
北有越山直下のその鉄索跡からは、わたらせ渓谷鐵道の第二渡良瀬川橋梁が、遥かかなたに小さく見えます(写真:2007/11/17)。
♦第二渡良瀬川橋梁
振りかえり南東の方角を見てみましょう。今登ってきた南有越山が大きく左右に横たわっている光景を目にすることができます(左写真:2013/12/13)。
そして、進行方向の石垣の上が、北有越山頂です(右写真:2013/12/13)。
山頂からの展望は良く、南を眺めると東西に続く県境稜線のなかにひときわ高くそびえる大萱山(1154.2m)を見ることができます。写真の遠景中央が大萱山、眼下の町並みは砂畑地区と遠下地区(写真:2013/12/13)。
広くて平らな北有越山山頂(≒1030m)には、大きなおにぎり形の岩と、鉄索の基礎跡があります(左写真:2007/11/17)(右写真:2013/12/13)。
風が強かったのですが、この鉄索跡のおかげで、風を避けての快適な小休止をとることができました。
♦
ひとりごと(2007年11月17日の、出来事):この時は、下りも同じコースの計画でしたので、ペットボトルの水をこのステーション跡に一時置いて、頂上を目指しました。しかし、下りで尾根筋を一つ間違えてしまい、ペットボトルの水とは二度とめぐり会えませんでした。
再度このコースを歩く時は、舟石側に抜けて舟石林道を歩いて下山することにしましょうか。
北西の方角にはこれから登る奥水山が見えます。奥水山山頂までススキの原が広がっていますが、今は冬なのでススキの枯れ野を進みます(写真:2013/12/13)。
北有越山を過ぎ、登りに差し掛かる所に鉄索跡がありました(左写真:2013/12/13)。
その斜面を登りきると突然、広いススキの原っぱが出現しました。この場所の名称がはっきりしないのでここでは
「ススキ平」 とでもしておきましょう。
(右写真:2007/11/17)
北の方角には備前楯山、その右には黒岩(≒1230m)が見えます
(左写真:2013/12/13)。
右の写真は同じ場所での撮影ですが、男体山が見えます
(右写真:2013/12/13)。
南西の方角に視線を移しましょう。遠方の県界尾根には二子山、手前に水山(1030m)、水山堆積場跡が見えます(写真:2013/12/13)。
水山と名の付く山は南から、
•水山 (1030m)、
•奥水山 (1114.5m)、
•大水山
(≒1120m)、
•小水山 (1095m) の4座あり、南北に山並みが連なります。
水山(1030m)は、コース外の為、今回の登山では通過しません。
北西の空に一直線に続く、渡り廊下のような小尾根を進みます。登りきった右にあるピークが、奥水山です
(左写真:2013/12/13)。
ススキの群生する小尾根から南東の方角を見下ろします。中央に北有越山、直ぐ後に南有越山山頂が僅かに見えます。写真では暗くてはっきりしませんが写真中景の中央に、石倉山が横たわっています。遠景は市界尾根で、左のピークは勝雲山、その右のピークは1283mの山。すこし離れた右のピークは、地蔵岳です(右写真:2013/12/13)。
奥水山(1114.5m)山頂にある、三角点標石です(右写真:2013/12/13)。
奥水山山頂からは、大水山がおよそ150メートル先に見え、はるか後方には、三つのピークも見えます(左写真:2013/12/13)。
左写真をマウスでロールオーバーした時の写真は、左から備前楯山(1272.4m)、備後楯山(≒1240m)、黒岩(≒1230m)の三山です(ロールオーバー左写真:2013/12/13)。
大水山(≒1120m)山頂を写す。なだらかな尾根上のピークです
(写真:2013/12/13)。
大水山を越えると、ガケのような急斜面になります(ロールオーバー写真:2013/12/13)。
上記のガケ底のような鞍部を過ぎれば、直ぐに小水山(1095m)山頂に到着します(写真:2013/12/13)。
小水山を下り、鞍部に到着しました。この鞍部は 「三吉転」 という名の峠だそうです
(ロールオーバー写真:2013/12/13)。
♦ 三吉転(コロガシ)峠 : 通洞から渋川の支沢、天狗沢を経て、文象沢を下り小滝に至る山道の要所でした。
やっとのことでたどり着いた三吉転峠を過ぎれば、目の前の黒岩南面がこのコース最後の登りとなります。
また、このコース最後となる鉄索跡にも出会えます(写真:三吉ころがし停車場跡:2013/12/13)。
♦ 選鉱場に勤めていた方 (明治44年(1911)生まれ) の、回想文 ♦
…(前文略) 昭和4年、十九歳で選鉱場の鉄索の油差しとして就職しました。以来鉄索が廃止になるまで約三十年間、索道一すじで働いてきました。 …(中略)… 選鉱からは第一鉄索の有越停車場 …(中略)… 水山停車場のものと、 …(中略)… この中には 「三吉ころがし」 とよばれた停車場もありました。 (後略)…「町民がつづる足尾の百年」 『明るい町』編集部 からの抜粋
鉄索跡(三吉ころがし停車場)背後の岩壁を左から巻き、黒岩南面を登り進むと岩のある斜面にでました(写真:2013/12/13)。
この黒岩(唐岩)南面からの展望は良く、ちょっと振り返って見ると、歩いてきた山なみが目の前に開けていました(ロールオーバー写真:中央の山が大水山、その左右に奥水山と小水山:2013/12/13)。
左端に位置するピークが備前楯山(1272.4m)、中央が備後楯山(≒1240m)、右端に位置する大きなピークが黒岩(唐岩)(≒1230m)です。
三吉転峠の上部、黒岩南面から撮影(写真:2007/11/17)。
長い尾根歩きの末ついに最後の山頂、備前楯山(1272.4m)に立つことができました。「御疲れ様でした」
(左写真:2007/11/17)(右写真:2013/12/13)
足尾銅山発見地が備前楯山で、鉱床の大半がこの山にありました。
左写真の左側が製錬所全景で右奥が龍蔵寺です。
(左写真:2007/11/17)(右写真:中央奥は、名峰男体山)
♦龍蔵寺と梵天岩
深田久弥氏が1964年に発表した 『日本百名山』 は第16回読売文学賞を受賞し、登山愛好家だけでなく多くの人たちに愛読されています。
その著書内 "白山"の項目引用
…(前文略) 日本人は大ていふるさとの山を持っている。山の大小遠近はあっても、ふるさとの守護神のような山を持っている。(後略)…
さしずめ足尾のふるさとの山は、備前楯山でしょう。
通洞駅の南西に位置する足尾歴史館の裏から登り始めます。
有越鉄索塔跡(高度700m~750m)のある急斜面をジグザグに直登します。
ちょっと振り返って町並みを写しました。写真の中央奥の構造物は、通洞大橋です。(写真:2019/12/01)
高度830m付近で大きな岩に出あいました。その岩の真下に小さな石の祠があります(左右写真:2019/12/01)。
祠の側面に刻まれた文字は、かすれていて完全に読み取ることができませんでしたが、 "施主 新梨村" 、"貞享○年○○八月廿四日"
と、刻まれているようです。
下記回想文と照らし合わせますと、貞享二年(1685年)に作られたようです。当時の出来事としては、1683年(天和3年)八百屋お七放火の罪で火刑、1687年(貞享4年)徳川5代将軍綱吉の生類憐みの令、等々。
この祠は随分と長い間、新梨子地域を見守り続けてきたのですね。
♦ 松原に住んでいた方の回想文 (大正10年(1921) 生まれ ) ♦
新梨子稲荷と愛宕神社
…(前文略) 足尾には愛宕神社は遠下、松原、赤沢、掛水、愛宕下と五つあります。それぞれの部落を一望できる高所に奉(まつ)られ、火災と悪疫の予防に努めてくださる神様です。
…(中略)… 松原の愛宕さんがある場所は、選鉱の廃泥を運搬するケーブルの二つのコンクリート柱のうち、下の柱の脇にあります。石の祠(ほこら)には、「貞享二年(1685年)新梨子」と彫刻(きざ)まれています。いまから三百十一年前になりますね。なぜここが選ばれたのかといえば、新梨子とは渋川と有越沢に挟まれた地域で、この地域を見渡すには最も適した場所なのです。当時の祠で現存しているのは、石で作られていた新梨子の祠だけではないですか。 (後略)…「町民がつづる足尾の百年 第2部 」 『明るい町』編集部 からの抜粋
選鉱場から出る廃泥を堆積場へ運搬する索道です。索道のことを足尾では鉄索と呼んでいました。現在、塔の基礎部分が残っています(左写真:2008/01/04)。
"有越・奥水山"の登山ルートでは、鉄索塔の右側(東側)を通りますが、樹木の陰に隠れて登山コースからは見えません。
小学3・4年のころ、写生の時間に鉄索を描いた事がありました。子供心にも
うまく描けたと思い得意げに兄に見せると、鉄索のバケットを指さして、「ナス(茄子)がぶら下がっている」と、茶化された記憶があります。その兄が描いた製錬所のスケッチ画を掲載しました。
⇒ 有越鉄索塔跡へ
歌詞の最初に備前楯山が出てきます。小学生の時に歌った時は、女子児童が「私たちは」を歌い、「僕たちは」を男子児童が歌っていました。
小学4年生の冬の夜に、小学校が全焼するという大災害が起きてしまいました。中学校の仮校舎で授業を受けていた5年の時に、父の退職に伴い足尾を離れました。私のふるさとの山は、備前楯山です。
♦足尾小学校校歌
備前の楯の 空はるか 希望の瞳 かがやかせ
私たちは 僕たちは 明るくつどい 学びゆく たのしい足尾小学校