阿世潟峠(1417m)
阿世潟峠は、中禅寺湖(水面標高1269m)の南岸にあり、社山(1826.6m)と半月山(1753.1m)の稜線上にあります。
阿世潟峠は、中禅寺湖(水面標高1269m)の南岸にあり、社山(1826.6m)と半月山(1753.1m)の稜線上にあります。
阿世潟峠は、登山ルートとしては広く一般に知られた存在ですが、中禅寺湖畔と足尾を結ぶ峠道だったことを知る人は少ないでしょう。実際、ほとんどの人は、中禅寺湖南岸尾根伝いに社山または半月山に登る人たちで、峠を越える人は見かけません。
そうして今やこの峠には、足尾方面を示す "標示板" すらありません(写真:2011/12/12)。
掲載写真の風景は、大町桂月が絶讃した、阿瀬峠(阿世潟峠)からの眺望です(写真:2011/12/12)。
♦大町桂月(オオマチケイゲツ):明治2年(1869-1925)高知市生まれの紀行作家、評論家。
四 阿瀬峠の眺望
…(前文略)男體山は、日光山彙中の王なるが、日光あたりより見ては、さまで美ならず。こゝに上りて、はじめてその美を見る。加ふるに、湖水あり、渡良瀬川流域の群山あり、富士山あり、日光を見ずんば、結構を説く莫れと云ひけるが、余はこれに一轉語を加へむとす。曰く、「阿瀬峠に上らずんば、日光山の美を説く莫れ」と。(後略)…‹ 抜粋 ›「関東の山水」(明治四十二年出版)大町桂月 著以下 つたない解釈
四 阿世潟峠の眺望
…(前文略)男体山は、日光市にある火山群の中で最も有名な山ですが、日光市内からでは、それほどではない。阿世潟峠から見て、はじめてそのりっぱさを知るのです。さらに、湖水も、渡良瀬川流域の群山も、富士山をも眺望することができます。「日光を見ずして結構と言うなかれ」と世間で言われてますが、私はこれに一言言葉を付け足しましょう。それは、「阿世潟峠から見ずして結構と言うなかれ」と。(後略)…
足尾から阿世潟峠を経て中禅寺湖南岸に通じる街道は、久蔵沢から長手沢をさかのぼる沢沿いの道で、中禅寺路といわれていました。
延暦九年(790年)、足尾郷が日光中禅寺領になった当時から、峠道として利用されてきたのでしょうか。
愛宕下地区の 「愛宕下地蔵尊」の台座には、「右ハちうぜんぢ」・「享和元年(1801)」の文字が刻まれています。 "中禅寺路" のみちしるべだったのでしょう(写真:2011/12/12)。
♦延暦時代の出来事 : "鳴くよ(794)ウグイス平安京" 、延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に遷都する。
♦享和時代の出来事 : 十返舎一九の代表作「東海道中膝栗毛」が享和2年(1802)に出版された。
赤倉村の女性たちが享和元年に建立した子育て観音です。
中央の石仏の台座に「右ハちうぜんぢ・享和元年」の文字が刻まれています(左写真:2012/07/18)(右写真:2011/12/12)。
このように昔から利用されてきた "中禅寺路" でしたが、明治期に製錬所から流れ続けた鉱煙によって、久蔵沢流域部の草木は枯れ、表土は雨水で流され、がけ崩れや落石の絶えない状況になり、新たに半月峠道が造られました。
五 悪魔的道路
…(前文略) 阿瀬峠より中宮祠まで、凡そ一里、足尾の本宿まで二里、前者への下り坂は僅々五六町、足尾への下り坂は、之に七八倍す。三人の客と別れて、やゝ下れば、渓流あり、これ赤倉川にして、渡良瀬の上流也。足尾より中禪寺湖に出づる唯一の道路とて、冬期を除きては、往来少からず。處々茶店あり。その三番目の茶屋までは、普通の山路なるが、それより下、赤倉までは、天下の危道也、嶮道也。否、危險の度を通り越して、悪魔的道路也。それも曾遊の時には無りしが、近年洪水多きが爲めに斯くなりたりとぞ。洪水多きは、山に草木なきが爲め也。草木なきは、銅山の烟毒の然らしむる所也。銅は、我國の輸出品中の尤もなるものゝ一也。而して、この足尾銅山は、日本中の銅の産額の四分の一を占む。物質的に國益を爲せること、大也。 (後略)…
‹ 抜粋 › 「関東の山水」 (明治四十二年出版) 大町桂月 著
上の写真は、仁田元川 · 松木川 · 久蔵川の三川合流地点、つまり "わたらせ川 源流の碑" からの撮影です。最初は久蔵川に沿って歩きます。標高点773mからは長手沢を目指して歩きます(写真:2011/01/21)。
銅親水公園駐車場先の、車止めゲートから歩き始めましょう。久蔵川を左に見ながら進むと、ちょうど地形図に記載された標高点773mに差し掛かる所で、道が左右に分かれます(左写真:2011/12/12)。
ここからは右の道を進みます。右側の道を進むと建物がありました。航空緑化作業のためのヘリポート施設でしょうか(右写真:2012/02/28)。
林道沿いの谷底をのぞくと、はるか下流に久蔵沢に架かる橋が見えます。安蘇沢方面に至る林道です(左写真:2012/02/28)。
左の写真をマウスでロールオーバした時に変化する写真は、その橋のクローズアップの風景ですが、先程の標高点773mの分岐点を左に進行すると、この橋に到達します (ロールオーバ左写真:2011/12/12)。
"久蔵川一号堰堤" の対岸にある自然岩のモニュメントが、目にとまります(右写真:2012/02/28)。
それは高く直立した大きな石柱(オベリスク)で、下部の断面積より上部の断面積が広いこの石柱は、ローソクはローソクでも「和ろうそく」の雰囲気を持ち合わせています。
♦石柱、ローソク岩
ローソク岩
久蔵沢の入り口近くにある。土が失われたため岩石が露出し、それが風化してこうなった。(出典)「森よ、よみがえれ」 秋山智英 著
右の写真は、足倉沢出合いに架かる鉄の橋です(右写真:2011/12/12)。
これを渡り、更に進むと道は左右に分かれます。左は長平沢へ、右は阿世潟峠への道です。が、車ではこれ以上進入できない河川工事現場になります(左写真:2011/12/12)。
左写真の背後の山は、半月峠の北西に位置する標高点1655mの山でしょうか。
右写真左端の山腹にある山道は崩れて通れないので、白い車の奥に広がる河川工事現場を進みます(右写真:2011/12/12)。
道が崩れて通行不可能な鉄製の橋が、河川敷の終点にあります。この橋の直ぐ上で長手沢と利根倉沢が合流します(左写真:2011/12/12)。
ここからは林道の廃道なので、使われなくなった道路標識が残る山道を進みます。左の写真は、警笛鳴らせの標識や、カーブミラーが残る "山ノ神" 付近の風景です(左写真:2011/12/12)。
"山ノ神" からの道は傾斜が急な山腹を横切っているので、山側から流れ込む雨水を速やかに逃がす機能の優れている "水抜き石橋" が、設置されています(右写真:2011/12/12)。
♦水抜き橋:山腹を横切る沢沿いの道は、常に支沢の流入を受ける。また、普段は流れていない窪地なども、豪雨時には流れ出す。これら雨水に対し、じょうぶで排水に優れた構造の橋。
♦山ノ神:明治のころ、長手沢と利根倉沢の合流付近(おおよそ標高1000m)に、存在した集落。十数軒の農家と数軒の茶屋が散在していた。
落石や斜面崩壊による被害箇所の復旧工事は、"山ノ神" から上の道では実施されてなさそうです。
落石で埋め尽くされた林道、谷側が崩れてしまった林道。
こうした状況から推測するに、あと数十年も経つとこの林道は、山の斜面と一体となって、道の痕跡すら消滅して自然に帰ってしまうのではないでしょうか(写真:2011/12/12)。
林道終点まじかからは、中禅寺湖南岸尾根の稜線が見えます。左奥のピークが社山で、中央の鞍部(コル)は阿世潟峠です(写真:2011/12/12)。
林道終点に着きました。先ずは長手沢を渡りましょう。
左の写真は長手沢から上流を撮影したものです(左写真:2011/12/12)。
ここからは中禅寺路といわれた古道を進みます。古道と言っても地図記号では破線表示の幅員1.5m未満の道です。つまり登山道のような険しい長手沢右岸沿いの道を登ります(右写真:2011/12/12)。
道を進むとまもなく沢に下りてしまいました。そのまま沢をさかのぼります(写真:2011/12/12)。
溯行を始めてまもなくして、二俣に出合いました。ここでは正面の支尾根を上ります。
♦遡行:流れをさかのぼって行くこと。
二俣の中尾根に取付き上ると、ここからは明瞭な古道の登りとなります。尾根を歩きながら左の沢を見ると、非常に珍しい雪形を見つけました。パンダ模様の雪形です(写真:2011/12/12)。
♦パンダ模様の雪形
♦雪形:山の残雪や露岩を、里から眺めて動物や人などの姿・形に見立てた白黒の図形。古来より農作業のおおよその時期確定の目安に利用された。
沢沿いの道を登り進みます(左写真:2011/12/12)。
ついに阿世潟峠が見えてきました(右写真:2011/12/12)。
阿世潟峠から足尾方面の眺望
阿世潟峠から富士山眺望