間藤駅は終着駅です。わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線の駅で、栃木県日光市足尾町下間藤2番地にあります。間藤駅は大正3年(1914)11月1日に旅客営業を開始しました。
この駅はカモシカの見られる駅としても知られており、右の写真でも山を見上げカモシカを見ている人達が写っています(右写真:2007/09/02)。
間藤駅は、宮脇俊三氏(紀行文作家)が国鉄全線完乗を達成した最後の駅です。
駅舎内には、著書『 時刻表2万キロ 』の中の間藤駅についての紹介があります。
♦シロヤマブキの黒い実と間藤駅
♦間藤駅イルミネーション
(現地案内板の一部引用)
間藤駅:足尾線は私鉄により開設され、大正3年(1914)11月1日に営業を開始した。同7年に国鉄に移った。平成元年(1989)から第3セクター「わたらせ渓谷鉄道」として出発した。その間、昭和45年に無人化(最高時18人)され寂しい駅となったが、平成6年に陶芸教室と合築し「カモシカの見られる駅」として新装され注目されている。日光市
駅から右に折れ、しばらく進むと水力発電に使用した水圧鉄管(内径寸法1.38m)の一部が、地面から斜めに突き出て残っています(右写真:2007/08/19)。
道路反対側の渡良瀬川(松木川)を見下ろすと、川床に原動所の煉瓦造基礎の一部が残っています。背後の青色の橋は本山小学校へ通じる橋です(左写真:2007/08/19)。
この間藤水力発電所は、三居沢水力発電所(宮城県仙台市)、下野麻紡織発電所(廃止:栃木県鹿沼市)に次いで、日本で3番目に運用が開始されました。当時の水力発電所の発電能力としては最大規模の、300kWの出力を誇りました。
♦間藤水力発電所跡
(現地案内板の一部引用)
間藤水力発電所跡:ドイツのジーメンス電気機械製造会社のヘルマン・ケスラー技師の勧めにより、はじめて水力発電にふみきり、明治23年(1890)12月、この地(上間藤)に原動所(水力発電所)を完成した。名残りをとどめる直径1mの鉄管の一部が上の平がけ下にあり、原動所はこの下の渡良瀬川原にあった。昭和53年3月30日 日光市教育委員会
本山小学校は私立古河足尾銅山尋常高等小学校として建設され、戦後公立となりました。古河鉱業の建設物で学校関係では唯一この講堂が現存しています。
(右写真:2008/01/04:本山小学校校庭からの撮影)
(左写真:2007/08/19:緑に囲まれた講堂を、対岸から撮影)
♦本山小学校と石垣山
♦本山小学校と石垣山と中倉山と間藤浄水場
左の写真は本山小学校校庭にある運鈍根の碑です。右の写真は向原にある足尾中学校の運鈍根の碑です。(左写真:2008/12/29)(右写真:2009/05/03)
♦運鈍根:古河市兵衛の座右銘のひとつ。
(本山小学校校歌・歌詞2番)
運鈍根の信条が いまも生きてる学び舎に ぼくもわたしも元気な子
心をみがき身をきたえ 伸びゆく本山小学校
掲載写真は上の平(うえのたいら)からの撮影です。高台にある為、上間藤から南橋までを一望することができます。
写真中央奥には製錬所の三基の硫酸タンクも見えます。背景には大平山、黒檜岳•社山稜線が連なっています(写真:2008/12/29)。
上の平は、大正2年から宅地造成し、大正6年から社員社宅を建てました。昭和33年、社宅が町営住宅に移管され、その後入居者に払下げられました。今では大きく様変わりし、現在に至っています。
♦ "上の平" 裏山からの町並み
車の止まっている桁橋は平成5年に架設された新古河橋です。隣接する橋が古河橋です(写真:2007/08/19)。
新古河橋を渡り写真上方の舟石林道の峠を越えると銀山平に出ます。舟石峠には、備前楯山(びぜんたてやま)登山口があります。
♦舟石峠から備前楯山を望む
新古河橋を渡らず渡良瀬川(松木川)の左岸に沿って写真右方向に直進すると足尾砂防ダム(三川合流ダム)に出ます。
“(前文略) 私はこんなことを考えながら古河橋のほとりへ来た。そうして皆といっしょに笑いながら足尾の町を歩いた。(後略) 芥川龍之介著 『日光小品』 からの引用”
修学旅行で足尾銅山を見学した小説家の芥川龍之介が、銅山発展の礎となった珍しいボウストリング(弓弦形)構造のトラス橋を見て何を感じたかと興味を引くのは私だけでしょうか(左右写真:2007/08/19)。
♦古河橋:渡良瀬川に架かる永久橋としては、明治23年(1890)12月に架けられた古河橋が最も古い。
♦古河橋と新古河橋
足尾製錬所は各坑口にあった製錬所を、明治17年(1884)に集約して開設されました。
空に向かってスックと建っている煙突は足尾製錬所のシンボルともいえるもので、大正8年(1919)に造られ高さ約48mです。
(右写真:2006/05/03:後方に地蔵岳がかすんで見えます)
(左写真:2008/12/29:雪化粧した大平山を背にした製錬所です)
♦本山(足尾)製錬所
大正3年(1914)足尾鉄道の、足尾駅 ⇔ 足尾本山駅 間が開通しました。その時から本山駅は貨物専用駅でした。貨物輸送の終了に伴い、現在は使用されていません。
(写真:2007/10/20 本山駅につながる鉄橋)
♦足尾本山駅
(引用) 日本の近代産業発祥の地 産業遺産と環境学習のまち 足尾
製錬:鉱石から目的の金属を取り出すことを製錬といいます。鉱石を溶かし銅を取り出そうとするときに、鉱石の中の硫黄分が亜硫酸ガスとなり、放出されます。この亜硫酸ガスが山の草木を枯らしてしまう有害ガスとなるのです。
足尾製錬所では、亜硫酸ガスを除去しようと改良を加えてきました。昭和31(1956)年にはフィンランドのオートクンプ社から技術導入した自熔製錬技術と煙から副産物として硫酸を取り出す方式を確立させ、日本で初めて亜硫酸ガスを止めることができました。
足尾で開発されたこの製錬技術は、日本や世界で現在も生き続ける無公害の銅製錬方式です。「足尾ガイド」-2006年2月発行-
龍蔵寺対岸の製錬所から生じた煙害のために、上流の住民はやむをえず村を立ち退きました。村跡に残された無縁仏·無縁石塔·無縁墓は、ここ龍蔵寺境内に合祀されてます。
龍蔵寺の裏山もハゲ山でしたが、治山事業·砂防事業が行なわれた結果、樹木はよみがえり、龍蔵寺背後の梵天岩も守護神として、足尾の町を見守っています(写真:2011/01/21)。
♦梵天岩の頂に立つ、真っ白な梵天
♦龍蔵寺と梵天岩
♦ 赤倉自治会の会長を務めた方(昭和2年(1927)生まれ)の、回想文 ♦
愛宕山の梵天祭り
毎年一月第三日曜日に行われる梵天祭りは、赤倉自治会によって永年引き継がれてきた行事です。梵天祭りの由来は、引き継がれてきた記録によると、大正の初め一月二十四日、京都の愛宕大権現から愛宕神社をつくってもらい、龍蔵寺裏の岩山の頂に祠(ほこら)を設けたのだそうです。それ以来この山は、「愛宕山」と呼ばれているそうです。「町民がつづる足尾の百年・第2部」 『明るい町』編集部 からの抜粋
明治40年代からこの地に銅山社宅が建てられました。戦後、「愛宕山」の麓に位置するところから「愛宕下」と呼ばれました。足尾銅山閉山時(昭和48年) には110世帯377人の人々が生活していました。現在、建物は撤去されましたが、石垣が残っています(写真:2016/02/27)。
♦愛宕下銅山社宅跡
‹ 現地案内板からの抜粋 ›
足尾銅山社宅 「愛宕下」 往時のようす
(省略)戦後は「愛宕山」の麓に位置するところから「愛宕下」と呼ばれ、昭和31年(1959)には181世帯819人の人口を数えたが、経営合理化により徐々に減少し、足尾銅山閉山時(昭和48年)110世帯377人、(省略)平成9年(1997)現在で13世帯24人が住むのみとなり、(省略)日光市
右の写真は足尾砂防ダムの全景です。ここで松木川、仁田元沢、久蔵沢が合流します。
4年5ヶ月の歳月をかけて、昭和29年に完成した砂防ダムは高さ39メートル、長さ204.4メートル、貯砂量500万立方メートルという大きさでした。
水は7段に分けられて流れ落ちており、このダムによって下流の人々は水害や流砂の脅威から開放されました(写真:2007/08/19)。
♦三川合流ダムと、銅(あかがね)橋
ダム下流に位置する美しい斜張橋の橋、それがあかがね橋です。
YouTubeチャンネルのバナー画像は、この "あかがね橋" です。
渡良瀬川は、皇海山(すかいさん)を水源とし、松木川、仁田元沢、久蔵沢の三川が合流する、"わたらせ川 源流の碑"から渡良瀬川と称し、茨城県古河市で利根川に合流します(写真:2007/08/19)。
(現地案内板の一部引用)
渡良瀬川は、ここ足尾砂防ダムより約12kmさかのぼった松木川上流の皇海山(標高2,143m)に源を発し、群馬県大間々町まで険しい渓谷を流れ、桐生市、栃木県足利市、佐野市等の平地を流れて茨城県古河市で利根川に注ぐ、全長107.6kmの河川です。足尾砂防ダム(高さ39m、長さ204.4m、堤体立積101,700立方メートル、計画貯砂量500万立方メートル)は、昭和25(1950)年に着工し、昭和29(1954)年に完成した、わが国最大級の砂防施設です。この地を源流として流れる渡良瀬川が、安全で清らかな流れとして、これからも人々の心のふるさととして親しまれることを願い、この地に源流の碑を建立しました。平成6年10月 渡良瀬川水源碑設置委員会